十勝の鹿追町 聖書と人生のいろいろ

長老、牧師… 指導者の権威の根拠はどこにある?

2021/04/10
 
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2016年9月に、十勝鹿追町オープンした小さな教会です。,Voluntarily(自発的に),Open(開放的に),Logically(論理的に),聖書を学んでいます。史上類をみない大ベストセラー、聖書について、一緒に学んでみませんか? 

1. コロナ禍で問われる教会のありよう

キリスト教界で、世界的に大きなうねりをもたらしているのが、家の教会と呼ばれる小さな信仰共同体の存在です。

既存の教会組織を離れ、家の教会で信仰生活を守る人々が増えているのです。

 

友人や仲間内で自発的に集って、聖書を学ぶ人々も増えています。

ネット上で、すぐれたメッセージや教材をいくらでも聴ける時代ならではです。

一つの地域教会に所属しながら、ネット上のバイブルスタディや、SNS上のつながりなど、複数のグループにつながっているのも、もはや珍しいことではありません。

コロナ禍は、この状況をさらに加速させています。

所属する地域教会の会堂に集い、礼拝を献げ、その結びつきの中でのみ信仰生活を送るという従来の形が、集えないという状況の中で、変化しつつあるようです。

 

問題となるのが、洗礼や聖餐。牧師や長老だけに執行権があるとされてきた教会の儀式、聖礼典についてです。

万人祭司なのだから、誰がやってもいいでないかという声もあります。

そもそも牧師や長老の権威の根拠は、どこにあるのか。先日も、そんな質問をいただきました。

 

2. 聖書の信仰は、共同体の信仰

旧約聖書は、神がイスラエルの民に与えた律法が中心です。

イスラエルという信仰共同体のための教え、戒めが律法なのです。

歴史書は、イスラエルの歴史を記し、預言は、イスラエルに対する預言です。

新約聖書は、イスラエルに約束されたメシアについて記します。

福音が広がっていく課程で、多くの異邦人信者が生まれ、ユダヤ人信者と共に、教会が形作られていくわけですが、教会もまた、最初から共同体として生まれ、共同体として育まれていきました。

このように、聖書に基づく信仰は、旧約時代にも、新約時代にも、共同体の存在を前提としています。

 

救いを得るためには、個人的な信仰が必要ですが、信仰は個人で完結するものではありません。

信仰の成長には、共同体の存在が必須です。

聖書は、神の約束の書ですが、この約束は、何より、イスラエルに対する約束であり、教会に対する約束なのです。

教会は、ギリシャ語ではエクレシア。会衆という意味です。

主によって呼び出されたクリスチャンの群れ、それが教会なのです。

 

聖書では、イスラエルも教会も、たびたび羊の群れに例えられています。

群れにはリーダーが必要です。共同体であるからには、指導者を必要とします。

究極的には、イエス・キリストこそ、真実の羊飼い、リーダーであるわけですが、地上にある教会もまた、それぞれに指導者を必要としています。

 

3. 長老が、教会指導者のルーツ

旧約聖書の時代には、それぞれの町に「門」と呼ばれる場所があり、門に集う長老たちが、人々を教育し、指導し、管理する責任を担っていました。

これが、福音書の時代になると、町々に立てられた会堂(シナゴーグ)が、長老たちの働き場となっています。

 

海外宣教がなされた使徒たちの時代において、地中海沿岸の各地に離散していたユダヤ人は、町々に会堂を組織し、長老たちがその指導者、管理者となっていました。

使徒パウロは、伝道旅行で新たな町を訪れると、まずユダヤ人の会堂で、イエスこそメシアであると伝えました。

多くの場合、福音を巡って会堂は二分し、福音を信じたユダヤ人は会堂を追い出されました。

パウロは、基本的な教理を教えると、長老たちを立て、長老たちを中心として、その町に教会が組織されていったのです。

 

牧師、神父、長老…。教団教派によって教会指導者の呼び方は様々ですが、聖書的ルーツは、このように、ユダヤの会堂の長老であると言えます。

旧約聖書で一番多く用いられている指導者の名称は、「長老」です。

新約聖書でも、使徒の次に多いのは、長老となっています。使徒は、復活の主イエスと出会っているなど、特別な資格を必要とする限定的な立場でしたから、一般的な指導者は、やはり長老であったと言えます。

以降の記事では、教会指導者の呼び名を、「長老」に統一して書きます。

 

4. 按手が長老の権威の根拠

聖書フォーラムのそれぞれのフォーラムのリーダーは、聖書塾で学んだことが最低限の資格です。

実際に、リーダーとしての働きを積み、委員会によって認められた人が、長老たちの按手によって、長老と認められ、任命されます。

教育機関で学び、一定期間の働きを経て按手を受け、牧師、長老として認められる。

このように、長老に至るおおまかな過程は、プロテスタントの多くの教派・教会で共通しています。

長老の権威の根拠は按手にあると言えます。

 

長老だけが執行できる聖礼典と言うと、各教団教派で共通する重要な聖礼典が、洗礼、聖餐です。

洗礼、聖餐も、按手を受けた長老によって執行されるべきです。

 

5. 聖書に書かれた按手とは?

旧約聖書の律法では、犠牲の動物に手を置きました。これは人の罪を動物に転嫁するということです。

主イエスは、たびたび人々に手を置いて祝福しました。イエスのきよさが、人々に転嫁されて、癒やしも起こりました。

使徒たちは、7人の執事を任命したとき、はじめて手を置いて祈っています。

アンティオキアの教会指導者たちは、パウロとバルナバに手を置いて、最初の宣教旅行に送り出しました。

主イエスから与えられた使徒たちの権威が、按手によって転嫁されていったのです。

 

権威の転嫁である按手によって長老が任命されたことは、使徒たちの手紙にも記されています。

パウロの書いた書簡には、誰にでも軽々しく按手をするな(Ⅰテモテ5:22)とあり、長老の資格についても、詳しく記されています(Ⅰテモテ3:1~7,テトス1:5~9)。

長老は、他の長老によって任命されました(テト1:5)。

長老は、複数の長老から按手されて、任命されます。

ですから、按手を受けることのないまま、長老を名乗ることや、一人の長老の意思だけで長老を任命することは、聖書的には認められないということです。

複数の長老から按手を受ける。それが最低限の長老の資格だと言えます。他の教会とのつながりのないところで、新たな教会は生まれようがないのです。

 

一人で勝手に名乗っても、長老とは認められません。長老の保護下にない集いは、地域教会とは言えません。

使徒たちを指導者として、教会は生まれました。

使徒たちが長老を立てて、各々の町の地域教会が誕生しました。

長老たちの権威の下に自分の身を置く謙遜さが、クリスチャンには求められます。

 

6. 按手の根拠はどこにある?

長老の任命においてなされる按手は、使徒からの連綿としたつながりを示すものです。

しかし、それが本当につながっていて、使徒にまでさかのぼることを証明できるものはあるのでしょうか?

 

大きな教派、教団が、まるごと過ちに陥った歴史があります。

聖書は人々が触れられないところに遠ざけられ、政治権力と一体化した聖職者たちが、利権争いに明け暮れた暗黒の時代が長く続きました。

その中での指導者の権威の継承が、主の目に叶うものだったのか、大いに疑問です。

 

初期の使徒たちすら、仲間内の偽教師に散々悩まされたことが、新約聖書には記されています。

人間的な組織が保証できる神の権威など、地上にはないことを突きつけられます。

歴史的検証に耐えうる、現在につながる長老の系譜など、どこにも存在しません。

ただ一つ言えるのは、長老の真実の保証ができるのは、主イエスだけだということです。

 

このように、按手は、長老としての最低限のしるしですが、按手という儀式が、長老の権威を保証しているわけではありません。

だからこそ、長老には、相互に戒めあえる他の長老たちの存在が重要なのです。

地域教会が小さく、長老が一人しかいない場合には、戒めあえる他の長老たちとのつながりが求められるでしょう。

そして、長老は、正しく聖書を解き明かしているか、人格的成長を伴っているかが、各々に常に問われます。

使徒達の書簡を読めば、彼らがいかに、互いに励まし合い、時に厳しく戒め合っていたかがよく分かります。

 

7. 権威に従い仕えよう

わたしは、あるカルト化した教会の問題に直面している時、そのリーダーを戒められる人を探しましたが、見つかりませんでした。

そのリーダーは、正式には、どこの組織にも属さず、独自に活動していたからです。

海外からの宣教師が、単独で教会を開拓し、カルト化するという事例が多発していると専門家から聞きました。

カルト化した家の教会も増えているようです。カルト化した小さな集団が、無数に出現していて、把握しきれない現状があります。

その長老は、戒めあえる長老たちとの関係の中に身を置いているのか。問われます。

 

救いは永遠の約束です。主イエスの十字架の贖いと復活を信じて救われた、その救いは二度と取り去られません。

しかし、長老という立場は常に、現在進行形であると思います。

長老が、与えられた地位に安住し、学びや奉仕をおろそかにし、人格的成長を怠るなら、主は、たちまちその地位を取り去ってしまうでしょう。

この世にあって、長老は、長老を懲戒できる機関や組織、つながりの身を置くことが求められます。

 

聖書は、地上の権威に対しても、敬意をもって従うように教えています。按手を受けた長老に対しては、なおさら、尊敬と従順が求められます。

一方で、長老には、人々を愛し、仕えることが求められています。

私に仕えよ、私を愛せよとは、誰も命令できません。長老だろうと信徒だろうと、私にできるのは、私が愛すること、私が仕えること、それだけです。

 

一人で、あるいは、仲間内で勝手に始めた共同体は、地域教会とは認められません。

地域教会のつながりの中で、長老の指導の下に身を置くことは、すべての信者に求められていることです。

 

信徒は、長老の権威の下に身を置くこと。

長老は、長老たちによって戒めあえる関係の中に身を置くこと。

そして何より、一人一人が聖書を正しく理解し、主の権威の下に身を置くことが求められています。

 

不適格な長老によって、被害を被ることもあります。

不幸なことですが、地域教会が罪を犯すことも主は指摘済みなのですから、不適格な長老を選んだ責任は、個々の信徒の側にもあります。

やむえない事情で一つの地域教会を去らざるを得なかったとしても、いずれか、主が立てられた長老の権威の下に身を置くことが求められています。

 

教会は、神の民の信仰共同体です。すべての信者は、一つのキリストの体の一部です。

地域教会が、キリストの体の一部分なら、一人の信者は、一つの細胞です。

手だけ、足だけでは、生きられません。単独で生存できる細胞など、ないのです。

 

クリスチャンは、一人では、信仰者の道を歩み通していくことはできません。

兄弟姉妹との交わりと、長老の権威の下に身を置くこと。

そして長老は、戒めあえる他の長老たちとの関係の中に身を置くことが求められています。

 

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Q:牧師には、従わなければならないの?
Q:牧師に、逐一報告しなきゃいけないの?

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