十勝の鹿追町 聖書と人生のいろいろ

Q:癒やされないのは不信仰? ヤコブ5:15を全体の文脈から考える

2021/05/05
 
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2016年9月に、十勝鹿追町オープンした小さな教会です。,Voluntarily(自発的に),Open(開放的に),Logically(論理的に),聖書を学んでいます。史上類をみない大ベストセラー、聖書について、一緒に学んでみませんか? 執筆者は、牧師:三浦亮平です。

Q: 「信仰があれば癒やされる」と、ヤコブ3章15節が、たびたび用いられます。どう考えればよいですか?

「 信仰による祈りは、病んでいる人を救います。主はその人を立ち上がらせてくださいます。もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。 ヤコブ書5:15」

1. ヤコブの手紙の文脈を確認しよう

ヤコブの手紙は、イエスの弟だった使徒ヤコブが、ディアスポラと呼ばれる「海外に離散したユダヤ人」に宛てたものです。

彼らは、外国で生まれ育ちながらも、各地に建てられたユダヤの会堂に集い、ユダヤ人の宗教的戒律を守り、律法をよく学んでいました。

ヤコブの手紙の想定される読者は、旧約聖書を熟知した人々です。

 

ユダヤ的価値観では、心と体は一つ。信仰と行動は一致するのが当然です。

ですから、ヤコブ書が、信仰は行いだ(ヤコブ2:24)と言うのは、パウロが、救いは信仰による(ローマ3:28)と言うのと矛盾しません。

信じたなら、当然行いに現れます。行いに現れないなら、本当に信じたのかどうか疑われます。

アブラハムは、行いを伴う信仰によってイサクを献げ、義と認められました。

聖書に記された信仰者たちは、アブラハムもイサクも、ヤコブも、モーセもダビデも、皆、例外なく行動の人です。

 

ヤコブが行いを強調しているのは、ユダヤ人なら当然の前提を理解せず、行いを軽視する人々が現れていたからです。

その代表がグノーシスという異端です。

彼らは、肉体よりも精神や魂が上だと考えました。高次元にある魂は低次元の肉体の影響は受けない。だから、心で信じてさえいれば、何をしようと問題ないと主張したのです。

彼らは教会に教理的逸脱と倫理的堕落をもたらしました。

心と体、魂と肉体を分けて考える、その背後にあるのが、ギリシャ哲学です。

歪んだ欲望を正当化する、このような人間中心の価値観は、聖書とは対極にあります。

ヤコブ書から分かるのは、離散したユダヤ人の中に、ギリシャ的な影響が、かなり浸透してきていたということです。

 

2. 聖書における究極の癒やし

ヤコブ書は、読者が旧約聖書を熟知していることを前提に書かれています。私たちが、ヤコブ書を読むときには、まず、旧約聖書全体の正しい理解が不可欠です。

聖書で癒やしが起こされているのは、旧約の預言者が活躍した南北時代。そして、新約のイエスの公生涯から使徒の時代まで。この二つの時期に限定されます。

共通するのは、神の言葉が聖書に記されていった時代だということです。

南北時代には、多くの預言書が記されました。使徒の時代には、福音書と様々な書簡からなる新約聖書が記されていきました。

 

預言者や使徒が起こした癒やしは、彼らの語ったことが神の言葉であることの確かな証明・しるしなのです。

癒やしは、しるし。これが聖書の大原則です。

しるしにすぎない癒やしを目的にすること自体が、すでに的外れなのです。

 

旧約聖書で「癒やし」という言葉が多く使われているのは、預言者の時代であり、最も多いのは、エレミヤ書です。

エレミヤが活躍したのは、北王国、イスラエルの滅亡後、残された南王国、ユダが滅びに突き進む暗闇の時代でした。

エレミヤが告げたのは、エルサレムがバビロニアに滅ぼされ、民が捕囚となること。しかし、やがて解放されるということでした。

さらには、はるかな将来、イスラエルが完全に癒やされる時が来ることをも告げています(エレミヤ3:22,33:6他)。

 

エレミヤ書で、「癒やし」という言葉が示すのは、イスラエルの悔い改め、神との関係の回復に他なりません。

イスラエルと神、人類と神との究極的な関係の回復をもたらす方。それが、来たるべきメシアです。預言者は共通して、この究極の癒やしを告げています。

 

3. 待ち望むべき将来の希望

グノーシスがもたらした悪影響は、終末論にも及びました。再臨の主イエスが王となる神の国、千年王国は、回復されたこの地上に建てられる。それが、預言に基づくユダヤ的理解です。

しかし、物質を劣ったものと考えるグノーシスでは、神の国が地上の王国であるとは認めがたいことです。彼らの中で、主の再臨と神の国実現に対する切迫感は、次第に薄れていきました。

信仰を心の中にとどめ、行いを軽視し、世の富を謳歌する。極めて世俗的なクリスチャンが増えていたのです。

ヤコブ書は彼らに厳しく警告します。

「ヤコブ5:1~3 金持ちたちよ、よく聞きなさい。迫り来る自分たちの不幸を思って、泣き叫びなさい。あなたがたの富は腐り、あなたがたの衣は虫に食われ、あなたがたの金銀はさびています。そのさびがあなたがたを責める証言となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くします。あなたがたは、終わりの日に財を蓄えたのです。」

そして、忍耐し、主の再臨に備えるよう促します。

「ヤコブ5:8 あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主が来られる時が近づいているからです。」

 

4. 導き入れるべきは、真実の救い

忍耐し、主に誠実に歩み、間近に迫った再臨に備えよと告げている、この文脈の中で、ヤコブ書は、癒やしについて記します。

「ヤコブ5:14~15 あなたがたのうちに病気の人がいれば、教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、病んでいる人を救います。主はその人を立ち上がらせてくださいます。もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。」

ここでの病とは、第一に信者への懲らしめとしての病です。神への背きのために生じた病なら、悔い改めれば癒やされます。

そうして、悔い改めて、心身共に整えて、主の再臨に備えよというのです。

 

グノーシスに影響された人々の中には、形ばかりの偽の信者も多くいたことでしょう。彼らに共通しているのは、自らの罪の自覚の浅さです。

救われるのは、真実に福音を信じた者だけですが、不信仰者と霊的幼子は、外面からは見分けがつきません。

ヤコブ書5章において、神に対する罪の告白が促されているのは、自らの罪の認識の深まりこそ、救いの確信を強めるものだからです。

ヤコブ書が第一に強調しているのは、罪の悔い改めによって救いの確信を得ていくことです。

 

ヤコブ書は、偽りの教えに陥ったものを、真理に連れ戻すことの大切さを最後に訴えています。

「ヤコブ5:19~20 私の兄弟たち。あなたがたの中に真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を連れ戻すなら、罪人を迷いの道から連れ戻す人は、罪人のたましいを死から救い出し、また多くの罪をおおうことになるのだと、知るべきです。」

 

ヤコブ書は、預言者のエリヤの祈りが、3年半、雨を止めたこと記しています(ヤコブ5:17)。

世の終わりの7年間の大患難時代の後半の3年半、イスラエルに苛烈な天からの裁きが下ります。

主の御心に叶う祈りは必ず実現し、主の日に裁きは下り、メシアは再臨されます。イスラエルに求められるのは、自らの背きを告白し、互いの救いを求めて祈り合うことに他なりません。

世の終わりの裁きを免れるために、真理から迷い出た罪人を連れ戻し、贖いと救いに導き入れなければならない。

福音宣教への派遣の強い覚悟をもって、ヤコブ書は締めくくられているのです。

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