動画&まとめ ④マルコ3章 「人生の岐路に立たされるとき」 ~宗教指導者との論争~
1. 癒やしをめぐる安息日論争
イエスの片手のなえた人への癒しが問題となります。口伝律法で、命に関わらない癒しは安息日に禁じられていました。
安息日の主として本質を問うイエスへの沈黙は、彼らの頑なさの表れです。
パリサイ人とヘロデ党、対立する者同士が、イエスへの敵意で一致しました。メシア調査の結論も、確定したと言えます。
2. 押し寄せる群衆 マルコ3:7~8
イスラエル周辺の異邦の地から押し寄せる人々。この時点では、誰もが癒され、全ての人に福音が告げられました。
「あなたこそ神の子だ」と叫ぶ悪霊をイエスが戒めたのは、まだ、イエスが公に神と宣言される時ではないからです。
3. 12弟子の選出 マルコ13:13~19
12弟子を選出するイエス。弟子によって福音が宣べられる。それこそ神の計画でした。
この時点での福音は、「イエスこそ、メシアだ」ということです。
リーダがペテロ、サブリーダーにヤコブとヨハネ。ユダだけがガリラヤ以外の、洗練された都会人でした。
4. ベルゼブル論争 マコ13:20~35
イエスを連れ戻しに身内の者たちがやってきます。以前イエスは、ナザレで「アブラハムが生まれる前から『わたしはある』」と宣言され、殺されそうになったことがありました。
そこへエルサレムから律法学者が下ってきます。彼らが携えてきたのは、ユダヤ議会のメシア調査の結論でした。
主な内容は二つ。
①イエスはメシアではない。
②イエスの奇跡は悪霊の頭(サタン)力による、ということでした。
サタンがサタンを追い出すという論の矛盾をイエスは突きます。
メシアであるイエスは、サタンに捕らえられた人々解放するために来られたのです。
イエスをサタン呼ばわりした宗教指導者こそ、サタンの手下です。
生きて働かれる主の業を、目の前のメシアを拒んだイスラエルの民族的罪に対して、厳しい裁きが下されます。
それが「聖霊を欺く罪」。紀元70年のエルサレム陥落が確定した瞬間でした。
そしてイエスは、神のみこころを行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、母なのだと語られたのでした。
求められるのは、主イエスを信じて「神の家族」となること。すべての家族は、真実の家族である「神の家族」のひな型なのです。
5. 人生の岐路に選ぶべき選択
イスラエルの民族的罪とは、聖書が預言されたメシアとして、目の前に現れたメシアを拒んだことです。
この罪により、この世代のイスラエルには、70年のエルサレム陥落の裁きを招くこととなりました。
日々訪れる人生の岐路に、私たちが神に求め、期待し、願い、祈るのは自然なことです。
しかし、そればかりだと、自己中心に陥り、さらに苦しくなります。人生を自分の力でコントロールしようとしてはいないでしょうか。
何より大切なことは、神に聴くことです。自分が神に期待するのではなく、神は自分に何を期待されているのかと問うこと。道はそこから開かれるのです。