Q:教会は、どうして一致できないの?
目次
Q:キリスト教会の年鑑を見たら、すごい数の教派や教団や教会があって、
びっくりしました。キリスト教って、なんでこんなにバラバラなんですか?
1.教会の歴史は、分裂の歴史?
1054年、教会は東西分裂し、東方教会(ロシア正教会、ギリシャ正教会等)と、西方教会(カトリック)に分かれました。
16世紀の宗教改革では、カトリックから、プロテスタントが分かれていきます。
“抗議する者”が、プロテスタントの意味ですが、プロテスタント教会は、さらにプロテストして分裂を繰り返し、新たな教団教派が次々と誕生していきました。
教派教団に属さない単立教会も多く、家の教会も増えています。わたしたち鹿追キリスト教会も、その一つと言えるでしょう。
教会としてはカウントされていなくて、年鑑などに掲載されていないところも結構あります。
2.分裂が生んだ効能も!!
宗教改革者たちは、新しい教派・教団の創設を求めていた訳ではありません。
カトリック内での改革を訴えた結果、破門された人がいて、その人を保護する領主がいて、政治的対立に発展して…と、結果として分裂に至ったのです。
分裂は、教会に、信仰復興の機会をも、もたらしました。
カトリック、プロテスタントが、教勢拡大を域外に求めた結果、世界宣教の道が拓かれていきました。
プロテスタント教会の分裂の多くは、信仰的な動機から発しています。
プロテスタントのみならず、聖書の記す原点に回帰しようという主張は、教会の歴史の中で繰り返し起こってきました。
その訴えは、既存の教会にもチャレンジとなり、キリスト教界全体を活性化させる重要な促進剤ともなっているように感じます。
原点回帰の訴えが先にあり、結果として分裂に至ったということなら、その分裂は、積極的な意味があるものだったと言えます。
3.形ばかりの一致を求めても…
分裂を繰り返してきた教会の歴史の一方で、一致を求める動きも根強くあります。
様々な教団教派が一致して、主のために働くことができれば、素晴らしいことです。
ただし、気をつけておかなければならないのは、一致を目的にしてしまうと、別の重大な問題が生じるということです。
エキュメニカル運動を考える
「エキュメニカル」という超教派の一致を求める運動があります。
カトリックから、プロテスタントの諸教派まで、様々な教団教派が連なっていますが、そこでは教理的なことは、取り上げられません。
教理的な問題を取りあげて、果てしない論争になるのを避けているのでしょうが、そこには、深刻な問題があります。
教理的違いを無視した一致とは、表面的な形だけのものに過ぎないからです。
結局、エキュメニカル運動が一致できるのは、教理や信仰から切り離された、社会活動などに限られてしまいます。
政治的立場となると、信仰以上に多様ですから、実のところ、社会活動における一致はさらに困難です。
少数の人々のリードで、社会的、政治的な声明を出すぐらいが、精一杯のところではないでしょうか。
教理を問わない祈祷会や礼拝は、親睦会の延長でしかありません。
教理的一致の上に立たないエキュメニカル運動が、教会の本来の使命である伝道になかなか結びつかないのは、至極当然のことだと思います。
福音派、ペンテコステ派の超教派運動を考える。
同じような難しさは、プロテスタントの福音派やペンテコステ派の教会の間にもあるように感じています。
聖書全体を神の言葉として信じている、という点で共通していても、イスラエルや終末の捉え方では大きな違いあるからです。
福音を伝えることに特化した伝道集会に絞れば、一致して行うのは、そんなに難しいことではないでしょう。
しかし、それ以降の信仰を深めていくという領域になると、途端に、共に働くことは困難になります。
超教派の集まりが、同じようなイベントの繰り返しでとどまってしまいがちなのは、そういう背景からだと思います。
大きな伝道集会を諸教会が協力して開催したのはいいけれど、熱気が冷めるにしたがってマンネリ化し、分散していく…。
そんなサイクルが、繰り返されてきたのではないでしょうか。
教理的一致と深まりのないところでは、同じ行動をすることが一致のしるしとされがちです。
「この集会(行事)に参加しないのは、一致を乱していることだ」となってしまうと…、何とも息苦しいです。
形ばかりの一致という点では、エキュメニカル運動と根っこにある問題は同じだと言えます。
4.聖書が求める教会の一致とは?
主の教えに一致しているのが、「教会」です。
教会に求められる一致とは、主イエスの教え、使徒の教えに対する一致です。教会組織に対する一致ではありません。
回復されなかった、イスラエル論、終末論
主の教えに一致している地域教会同士であるなら、自然と一致できるはずです。
なぜ、一致しないのか?
問題は、本来の主の教えが回復されていないところにあります。
宗教改革では、救いの教理は回復されました。
すなわち、救いは、主イエスの十字架の贖いと復活の「福音」を信じる信仰のみによる、という大原則です。
しかし、イスラエル論と終末論については回復されないままだったのです。
イスラエル論が取り扱うのは、神の計画の柱であり、終末論は、神の計画のゴールを示します。
イスラエル論も終末論も語られない教会には、支える柱も、向かうべきゴールもありません。
福音を信じてスタート地点に立ったのはいいけれど、掛け声だけでは、先には進めません。多くのクリスチャンが、迷走しています。
聖書全体の文脈から 浮かび上がる一つの普遍的教会
聖書全体を、文脈に沿って読んでいくとき、スタートとゴールが浮かび上がり、今、従うべき原則が明確になります。
人の罪によって堕落し、神の栄光から離れた世界は、神の約束によって導かれ、再び完全な回復の時を迎えます。
アダム、ノア、アブラハムとその子孫との間に結ばれた契約に基づいて、神はこの世界を導かれています。
聖書の原則を理解し、時代のゴールを見据え、その道を歩み出した者たちに、はじめて与えられるもの。それが、真実の一致です。
真実に一致した者たちこそ、真実の教会なのです。
イスラエル、終末について、聖書本来の共通の理解をもった教会には、不思議な一致があります。
わたしたち聖書フォーラムは、自立と共生を基本として、ゆるやかにつながりあっているグループです。
組織的な強制力がなくとも一致があるのは、共通の聖書理解に立っているからに他なりません。
今、世界中で、所属するグループや、教団教派や、国、民族に関わりなく、ただ、聖書理解において一致する、一つのネットワークが生まれてきています。
キリスト教界全体から見れば、まだまだ少数なのでしょうが、これこそ、キリストの一つの体なる、普遍的教会なのだと実感させられています。
いつの時代も、一つであり、一致している普遍的教会
真実の教会は、一つのゴールに向かうキャラバン隊のようなものです。
リーダー、料理人、荷役など、一人一人に与えられた役割は様々ですが、一つのキャラバンに属し、一つのゴールに向かっているという点で一致しているのです。
聖書本来の意図を汲み取っていく、正しい理解に立つ聖書研究こそ、教会の一致の、本当の土台となるものだと確信させられています。
聖書の真理に立つ、真実の普遍的教会は、いつの時代も一つであり、常に一致しています。
すべての地域教会は、この普遍的教会に一致しているか、問われています。
「わたしの所属しているこの地域教会は、キリストの一つの体である普遍的教会と一致しているだろうか?」と。
真実の一致を求め続けるものでありたいと、切に願います。