福岡母子殺人事件に思う 私たちの罪 埋めがたい欠損

      2017/12/20

現職の警察官が、妻と二人の子を自殺に見せかけて殺す。報道されているとおりならば、言語に絶する事件です。

なぜこんな事件が起きるのか。具体的な動機や背景は、これからの捜査に委ねるとして、クリスチャンとして、この事件をどうとらえるべきなのか、思いをめぐらしています。

1.すべての人には、罪という欠損がある

聖書が教えるのは、すべての人には、根源的な罪、原罪があるということです。創造主である神から離れてしまっていることが、あらゆる問題の根本なのだということです。

わたしたちの遺伝子には、誰しも欠損があります。近親婚が避けられるのは、同じ遺伝子が欠損した者同士が結婚すると、子どもに重大な障害が生じる可能性が高いからです。

罪とは、私たちの人格にある欠損です。完全に欠損したDNAの修復が自力では不可能なように、欠損した人格も、自分ではどうしようもない部分です。

2.人によって、欠損が違うから、理解できない。

耳を疑うような凶悪な事件が起こるたび、多くの人は、なぜこんなことが、と驚きます。しかし、自分自身にも、どこかしら欠損があるのです。ただ、欠損しているところが違うだけなのです。

自分と欠損の種類が違う人のことは、理解できません。お酒のトラブルを起こしたことのない人は、飲酒という問題で欠損している人のことが分かりません。

他者の欠損は、見えます。それは確かに、自分には考えがたい欠損です。

しかし、自分自身の欠損については、多くの人は無自覚か、軽視しているのです。

凶悪事件を起こした、その人も、欠損以外の部分では、いたってまともで、周囲を違和感のない日常生活を送っていたりします。だから、なぜあの人が、と驚くのです。

誰しも、自分の心の中に、自身の管理の及ばない不法地帯があります。
放置するにとどまらず、その闇の存在を肯定し、闇に従っていくならば…。

その恐ろしい結末を、私たちは、さんざん直視させられています。

3.埋めようのない欠損を嘆く

新約聖書で、最も多くの書簡を書き残した使徒パウロ。パウロは、自分自身の欠損について、こう嘆いています。

「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないことを知っています。わたしには善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。…もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。ロマ7:18,20」

私たちのうちに、罪が住んでいる。

欠損した不法地帯を支配しているのは、この世の支配者である悪魔です。

私たちは、普通の人間が、悪魔的な所行を行うという現実から、目をそらすことはできません。

では、どうすればいいのか。パウロの叫びが心に響きます。

「…私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるでしょうか。ロマ7:24」

4.欠損から解放される、たった一つの道

しかし、嘆きの後に、パウロはすかさず、感謝をささげています。
どうしようもない欠損、罪からの解放を、イエス・キリストがもたらしてくださったからです。

自己破産した人が、生活上に様々な制約を受けているように、私たち人間は、罪のゆえに欠損をかかえ、私たちの心自体が悪に縛られ、本来の自由を失っています。

この、私たちに制約をもたらしている、罪という借金を、神の御子イエスが、その命を引き替えに、十字架ですべて肩代わりしてくださいました。

死んで墓に葬られたイエスは、三日目に死を打ち破って復活されました。

こうして、私たちの罪は許され、死という最悪の不幸は、打ち破られたのです。

イエス・キリストは、わたしの罪のために十字架にかけられ、死んで葬られ、三日目に復活された。

これを、自分自身のこととして受け入れたとき、私たちは救われます。

5.聖霊が、私たちのうちに住まわれる

パウロは、言います。

「もしイエスを死者の中からよみがえらされた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらされた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。ローマ8:11」

イエスを救い主として信じたすべての人のうちに、神の霊である聖霊が住まわれています。どうしようもない欠損を抱え、コントロールの効かない闇に振り回されていた私たちを、今や、聖霊が治めてくださっているのです。

破滅的な状況から、イエスの十字架の死と復活の福音を信じて救われた、多くの人々がいます。どうしようもない欠損を補ってあまりある聖霊の恵みが、人格的な欠損を埋め、変化と成長をもたらしたのです。

主イエスを信じ、聖霊に満たされることだけが、罪からの解放の道です。
それは、信じるものすべてに与えられる、神からの一方的な恵みなのです。

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