十勝の鹿追町 聖書と人生のいろいろ

携挙って? 携挙を待ち望むべき態度とは?

 
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2016年9月に、十勝鹿追町オープンした小さな教会です。,Voluntarily(自発的に),Open(開放的に),Logically(論理的に),聖書を学んでいます。史上類をみない大ベストセラー、聖書について、一緒に学んでみませんか? 

1. 携挙とは?

私が以前いた教団では、携挙(けいきょ)という言葉を聞いたことはありませんでした。

終末論自体、ほとんど語られることはありませんでしたし、私自身にとっても、預言や黙示録など、全く理解不能な書物でした。

 

携挙とは、「教会が天のイエスのもとに挙げられること」です。

この場合の「教会」は、普遍的教会、ほんとうに福音を信じている信者のことです。

地上に現実に存在する地域教会には、真の信者と偽の信者が混じっているわけですが、誰が真の信者かどうかは、神だけが知っています。

ある瞬間、地上にいるすべての真の信者が、天のイエスのもとに生きたまま挙げられ、復活の体を与えられる。それが携挙です。

「携挙」は、「ハルパゾー(引き上げる)」という言葉から来ています。

Ⅰテサロニケ人への手紙
4:16 すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、
4:17 それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

 

携挙を描いた「レフト・ビハインド」という小説(映画)では、信者の体が忽然と消え、来ていた服だけが残されている様子が描かれていました。

主イエスが復活された後、墓には、イエスの遺体に巻き付けた布が、中身だけ抜いたように残されていました。そのことが根拠となっているようです。

携挙が実際にどのような現象として、人々に目に現れるかは、起こってみないと分かりません。

 

2. 聖書的根拠は?

旧約から新約まで、聖書全体に何度も記されているのが、「主の日」と呼ばれる世の終わりの裁きです。

「主の日」を、7年間に渡る大患難時代として詳細に記したのが黙示録です。

 

主イエスは、主の日について警告すると共に、信者には逃れる道があることをも弟子たちに教えられました。

「しかし、あなたがたは、必ず起こるこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈っていなさい。ルカ21:36 」

主の日、すなわち大患難時代の後、主イエスが再臨され、世界はエデンのような楽園へ回復されます。そこにすべての信者が住まわせられるのです。

 

大患難時代が世界の大リフォームだとすると、携挙とは、リフォーム前の引っ越しのようなものです。

つまり、地上に残された人は、天地が激動する大リフォームに巻き込まれてしまうということです。

 

使徒パウロの手紙からは、大患難時代の警告と携挙の希望が、切迫感をもって教会に語り継がれていたことがよく分かります。

「この御子こそ、神が死者の中からよみがえらせた方、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスです。Ⅰテサ1:10」

主の日・大患難から免れる。それは、信者に与えられた大きな希望でした。

「しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。Ⅰテサ5:4」

 

黙示録で、キリストが諸教会にあてた手紙の中にも、大患難時代からの守りとして、携挙の約束があります。

「わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。黙3:10」

 

3. 再臨と空中再臨(携挙)

黙示録から分かるのは、大患難時代は7年と定められていることです。

大患難時代に、かつてない大勢の人々が、福音を信じて救われます。その最後には、イスラエルが民族的回心にいたります。

「もしその日数が少なくされないなら、一人も救われないでしょう。しかし、選ばれた者たちのために、その日数は少なくされます。マタイ24:22」

 

大患難時代に突入すれば、主イエスの再臨は7年後と分かります。一方、主イエスは、いつ来られるか分かりません。

ここから、主イエスの再臨は、二度に渡って起こることが分かります。

 

最初の再臨が、主イエスが、真の教会に属する信者を天に挙げる携挙。これを「空中再臨」とも呼びます。携挙は、いつ起こるか分かりません。

二度目が、大患難時代の終わり。ハルマゲドンで絶体絶命の危機に陥ったイスラエルが民族的回心に至ったとき、王の王、裁き主として主イエスが来られる。これが、「再臨」です。

主イエスの再臨は、空中再臨とも呼ばれる携挙と、大患難時代の最後の再臨と、二回に分かって起こるのです。

 

携挙が起きてから、大患難時代が始まるまでは、いくらかの間があるようですが、数日なのか数年なのか、その期間は定かではありません。

 

4. どうして携挙は、まだ来ないのか?

使徒の手紙から伝わってくる切迫感とは裏腹に、なぜまだ携挙は来ないのか、という疑問も当時すでにありました。

パウロは、神の時は、人にとっての時間の感覚とは全く異なることを語っています。

 

時間を超越された永遠の創造主なる神は、すべての時を同時に俯瞰される方です。

漫画の原稿を並べて、初めから終わりまで、同時に目にしている編集者の姿を思い浮かべます。

終末は、神の目には、すでに起こったも同然のことであり、神の時が来れば、ただちに実現されることなのです。

「しかり。わたしはすぐに来る。黙22:22」

 

5. 今、求められる心がまえ

大患難に至る終末のタイムスケジュールに、世界大戦、イスラエル国家の回復、北方からの侵略といった出来事を聖書から読み取ることができます。

中東情勢が激変する今、携挙が近いと騒ぐ人々がいます。

しかし、携挙に対する備えは、使徒たちの時代から、変わりなく、すべての信者に求められてきたものです。

使徒たちは、いつ来るか分からない携挙に備えつつ、絶えず福音を述べ伝え、御言葉を解き明かしていきました。

 

携挙が起こるその時まで、教会とクリスチャンに与えられた使命は変わりません。

何が起ころうと、起こるまいと、ただ福音を告げ、御言葉を解き明かす。切迫感を持ちつつ、淡々となすべきことをなしていく。

それが、私たちに求められる態度であると思います。

地上の状況を見て携挙が近いと騒ぐのは、聖書が求める態度ではありません。

 

世界大戦が勃発した当時にも、すぐに携挙が来ると訴えた人々がいましたが、携挙は来ませんでした。

それらのグループには、当時の勢いを失い、もはや、携挙や終末論自体、語らなくなってしまったところがあります。

私たちは、どのように携挙を待ち望むべきなのか。歴史に学び、聖書の原則を確認する必要があります。

 

主の日は既に来てしまったと動揺する人々に、パウロは落ち着きを求めています(Ⅱテサ2:2)。

使徒たちが、生涯変わらず続けたように、私たちがなすべきことは、福音を告げ、御言葉を解き明かしていくこと、それだけです。

「神は、私たちの福音によってあなたがたを召し、私たちの主イエス・キリストの栄光にあずからせてくださいました。ですから兄弟たち。堅く立って、語ったことばであれ手紙であれ、私たちから学んだ教えをしっかりと守りなさい。Ⅱテサ2:14~15」

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