教会のアフターコロナを考える
1.十勝鹿追の現状から
十勝鹿追の生活は、都市部と比べれば、日常がすでに8割減です。
礼拝に、近隣三町から集っていますが、三町の合計面積は、大阪府以上、東京都未満。そこに人口2万人ほど。
十勝支庁は、岐阜県以上、山形県未満の面積に、人口36万人。
新型コロナの感染者は、先日、一ヶ月以上ぶりに1名が出ました(2020年4月24日現在)。
感染者数名と、同様の状況の宗谷支庁、根室支庁にも共通するのは、いずれも人口密度の低い過疎地域ということです。
見えてくるのは、“人口密度の高い密集地ほど、感染拡大の速度も速い“、というシンプルな事実。
世界的に見ても、感染爆発は、都市部に集中しています。
ニューヨーク在住のある日本人が、この町の魅力は、世界の一線で働く多様な人々との出会いだと言われてました。
出会えないなら、もはや、ニューヨークにいる意味がない、とも。
都市の魅力は、人が集うところにあり、様々なビジネスチャンスも芸術活動も、出会いから生まれてきます。
その最大の利点が損なわれた今、浮き上がっているのは、感染拡大への大きなリスクです。
集中から拡散へ。
これから、地方に目を向け、回帰していく人々が起こされていくのだろうと思います。
いつか必ず、地方の時代がやってくる。
そんな、何の根拠もない確信に支えられて、北海道の過疎地ばかりを巡ってきましたが、
まさか、こんな形で、田舎にいることが益とされる時代がやって来ようとは、思いもしませんでした。
今、ここに置かれているからこそ、できること。そこにこそ、力を注いでいくよう、強く促されています。
2.世界は元には戻らない
新型コロナの収束には、年単位の時間が必要だと、多くの専門家が告げています。
何人もの指導者たちが、長期戦への備えを市民に求めています。
さらに、政財界、各分野の先駆的なリーダーほど、現状への厳しい認識を示しています。
それはつまり、新型コロナが収束したとしても、世界は、決して元には戻らない、ということです。
日本でも緊急事態宣言に伴う、外出の自粛が促されていますが、長い長い戦いは、まだまだ序盤。スタートの号砲が鳴り、走り始めたばかりなのです。
この危機を乗り越えるためにどうするか。対応は様々です。
一切の支出を削減し、身一つになって、冬眠する動物のように身を潜め、時期を待つ人。
今、伸びている分野を見極め、積極的な投資をしようとする人。
やはり、最大の問題は、いつまで続くのか予想が立たないという点です。
支援金や融資で、当座を乗り切れたとしても、長いのは、その先です。
ならば、変化する環境に自らを適用させていくほかありません。
9・11やリーマンショックという激変を乗り越えてきたIT企業のCEOが、言われていた言葉が印象的でした。
“危機の時代に、人々が求めるのは、本当に必要なものだけ” そこに目を向けていかなければならない、と。
アメリカのあるレストランが、自宅にいる子どもたちのために無償で食事を配り始めたところ、多くの献金が寄せられ、事業として立ち上がりつつあると聞きました。
「情けは人のためならず」。他者のための奉仕が、結果として自分自身の助けになる。
それは、神が造られた、この世界の原則なのだと教えられます。
3.地域教会に求められる変化
宣言を受けて、会堂に集うことを休止する教会が増えています。大勢が集う大教会ほど、集会は困難です。
隣の韓国には、信徒数数千という教会もざらですが、集い続けている一部の教会への風当たりが強くなっているようです。
集えなければ、献金も集まらないと、牧師が切迫感を訴える記事を読みました。
大教会ほど会堂維持にも資金が必要です。長期化すれば、経済的に困窮する教会も現れてくるでしょう。
日本のキリスト教会がさらされている危機は、さらに厳しいものだと思います。
ただでさえ、教会員の極端な高齢化が進み、存続の危機に立たされている教会も少なくありません。
コロナ禍が、様々な問題を前倒しにしています。
ネット会議を通して、礼拝したり、交わる教会も増えています。
複数の話し合いもスムーズで、技術の進歩に驚かされますが、それでもやはり、直接会うことに勝るものではありません。
画面越しには伝わらないものをどう補填するか、大きな課題です。
ハーベストタイムの定例会で開始されたライブ配信。私が、ライブ配信に初めて参加者の立場で加わって感じたのは、不思議な一体感でした。
キリストの一つの体である、普遍的教会に連なっているんだ、という実感に、喜びがあふれてきました。
私たちの欠けを埋めてくださるのは、主ご自身の業なのだと教えられました。
私たちの鹿追キリスト教会でも、ライブ配信のみで礼拝を献げています。皆さんの感想で伝えられたのは、やはり、普遍的教会を実感した、という言葉でした。
「自分自身が、キリストの一つの体に連なっていることを、強く感じさせられて、本当に恵まれました。」
その言葉に、私自身も大いに励まされました。
コロナ禍の中で、これまで以上に求められるのは、一人一人の自発性です。
義務感で礼拝出席を続けてきた人には、信仰生活の継続は極めて難しいものになるでしょう。
一方、自ら積極的に学びと出会いの機会を求めて行く人には、この状況においても、様々な出会いと恵みが与えられていくことでしょう。
主を切に求める者を、主が支え、導いてくださる。
この時にあって、身を持って味わわされている方も、多いことと思います。
ネットにおいて、問われるのは、何よりメッセージの中身です。
歴史ある会堂に漂う厳粛な雰囲気、鳴り響くパイプオルガンの音色。
あるいは、ズンズンと突き上げるリズムに、湧き上がる高揚感。
それらは消え失せ、ネット越しに伝わってくるのは、圧縮され、平準化された、一つの映像だけです。
ユーチューバーと呼ばれる人々がもてはやされていますが、画像を通して他と差別化できるというのは、一つの才覚なんだと痛感させられます。
私自身、ライブ配信を始めて2年ほど経ちますが、未だに、慣れきれない緊張感があります。
自分自身の微力さを思い知らされながら、それでも続けることができているのは、常に、主に尻をたたかれているからに過ぎません。
滑舌悪いなぁ、とか、あぁ、また言い間違えてるよ、とか。画面で確認する自分自身の姿は、相変わらず突っ込みどころ満載です。
そんなメッセージにも、励まされました、力づけられました、という感想が届き、へこんだり、勇気づけられたりしながら、続けています。
あがきながらも、ただ、御言葉を主の御心に従って、告げ知らせ、解き明かしていく。主が働きかけられ、欠けをも埋めて、この身を用いてくださいます。
そこは、本当に、心から御言葉を慕い求める人々が集う教会なのか。
それとも、雰囲気や義務感から集っている人が大半なのか。
メッセンジャーは、どこまで主に従い、明確に的確に、御言葉を解き明かしているのか。
個々の地域教会の本質が、これまでになく問われているのを感じます。
4.コロナ時代の福音宣教
集うことが難しい、コロナ時代の伝道は、大会堂や大集会では不可能です。
改めて思い起こすのは、教会時代の最初に与えられた主イエスの命令です。
「あなたがたは行って、すべての人を私の弟子にしなさい」と。
旧約時代に律法が命じたのは、約束の地にとどまり、神殿に集うことでした。
一方、新約時代の命令は、出て行って福音を伝え、聖書を解き明かすことです。集うこと以上に大切なのは、“出て行って伝道すること” なのです。
使徒の時代、エルサレムの信者たちは、迫害によって散らされ、世界宣教に遣わされて行きました。
今、感染症によって会堂から追い出された私たちは、外に向かって福音を宣言していくよう、強く促されています。
主イエスに従う弟子たちの群れである教会は、福音宣教のために立てられた。その原則を教えられています。
この2年ほど、鹿追教会で地道に続けてきたライブ配信。20件前後だった視聴が、この一ヶ月で50~60件にまで増えました。
勝者総取りが、ネット世界の法則です。
ライブ配信を開始した当初の視聴者数は、わずか数件。後発の働きが浸透していくには、本当に時間がかかるものだと痛感させられてきました。
そのような中で、驚くような変化が、もたらされています。
教会員は10人に満たず、そのわずかな人々すら、会堂には集えない。にも関わらず、モニター越しに、共に礼拝を献げられている、たくさんの人々がいる。
アメリカや韓国など、海外からの視聴もあります。過疎地の極めてローカルな小さな教会が、グローバルに用いられる。本当に不思議な時代です。
思いがけなくうれしいのは、ノンクリスチャンの方で、動画を見ている方がおられること。
敷居が高いと言われる教会ですが、コロナ禍の中でのライブ配信が、ちょっとのぞいてみようか、という入りやすい雰囲気を作ってくれているようです。
伝道集会も戸別訪問も路傍伝道もできなくても、ネットがあります。ネットを通して聖書と出会い、福音を信じる人々が起こされています。
ネットしかできないなら、ネットで伝道するしかない。獄中で書簡をしたためた、パウロを思います。
制約の中で、むしろ、なすべきことは、クリアーです。
人々が今、本当に必要としているもの。救いの福音を伝えていくべき時、それが今です。
主が拓かれたその道に、さらに歩み出して行こうと、思いを新たにさせられています。
ですから、あなたがたに言います。
求めなさい。そうすれば与えられます。
探しなさい。そうすれば見出します。
たたきなさい。そうすれば開かれます。
ルカ福音書 11:9
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