使徒や預言者は、今もいる?
1. 自称使徒の魔法の杖?
カルト問題に詳しいウィリアム・ウッド先生が、通信に書かれていた出来事です。
“2020年、アメリカで、自称使徒たちが集い、人種問題は今日からなくなる、と持った杖で床を叩きながら宣言した。”
その結果は言うまでもなく、アメリカにおいて、人種問題は、ますます厳しい状況に陥っています。
さらに驚いたのは、この自称使徒たちは、手にしていた杖を「ガンダルフの杖」と同じものだと語っていたというのです。
「ガンダルフ」は、「ロード・オブ・ザ・リング」というファンタジーに登場する魔法使いの名前です。
2. 自称使徒とスピリチュアル
そこまで来たかと驚きましたが。まさに、それが、自称使徒の本質だとも言えるでしょう。
そんな状況に陥ってしまうのは、自称使徒の人々が、自分の感覚が絶対の世界にいるからです。
ポストモダンの時代の最大の偶像は、「自分自身」です。
ドラマの決めゼリフが、「自分を信じろ」であるように、「私」の感性、感覚が絶対化される現代の価値観の中で、欲望が権利として主張されます。
自称使徒や自称預言者が、思いつくままに「預言」する。
これを支持する牧師や信徒が得ているメリットは、自分の思いつきや願望をも、容易に神の言葉として正当化できるということです。
自称使徒たちが主導する新使徒運動(NAR)が、現代という時代の価値観にぴったり寄り添っているミニストリーなのは確かでしょう。
人気を得るのは当然とも言えます。
近年、結構な市民権を得つつあるのが、スピリチュアル・精神世界などと言われる世界観です。
それらもまた、自分の感性や感覚を絶対化するものです。
キリスト教世界で人気の癒やしのプログラムなどの多くは、いわゆるスピリチュアル・精神世界のヒーリングから、キリスト教っぽく、看板を替えただけのものです。
自分の感性、価値観を重視し、絶対化するという点で、スピリチュアルと新使徒運動(NAR)とは、そもそも親和性が高いと言えます。
世界的に人気のファンタジーのキャラクターやアイテムを、自称使徒たちが宣教に利用したというのは、当然の成り行きだと思います。
3. 自称使徒の聖書引用
厄介なのは、自称使徒や自称預言者たちが、いかにもそれらしく聖書を用いることです。
引用される定番の聖句は、「あなたがたは、使徒と預言者という土台の上に建てられている(エペソ2:19)」です。
ここから教会がある限り、使徒と預言者が存在するのだと主張するのです。
ここでの「教会」は、キリストの一つの体である「普遍的教会」のことです。
普遍的教会とは、これまでに(そしてこの教会時代を通して)福音を信じたすべての人を指す言葉です。
主イエスの教えが礎石であり、その上に初代教会の使徒や預言者が聖霊によって告げたことが土台となって、普遍的教会は成り立っています。
一度据えた土台が動かされることはありません。そんなことをすれば、建物全体が壊れてしまいます。
むしろこの箇所は、現代には、使徒や預言者がいないこと。そもそも存在の必要がないことを告げている箇所だと言えます。
4. 使徒と預言者の隙のない土台
鹿追教会では、創世記からずっと聖書講解を続けて、預言書に差し掛かっています。
多様な立場の預言者がおり、表現手段も様々ですが、伝えられる預言の内容は見事に一致しています。
イスラエル、ユダの直近に迫った裁き、はるかな将来の主の日の裁き。神の民の最終的な救いと回復。
この預言者の系譜を着実に継承しているのが、使徒たちです。
使徒たちは、預言者たちの預言を多く引用した上で、来たるべき再臨のメシア、イスラエルの回復、神の王国の実現について、さらに具体的に記しています。
使徒の時代にも預言者がいましたが、前述のエペソ書2章で言う「預言者」には、旧約時代の預言者も含まれていると思います。
むしろ、働きとしては、旧約時代の預言者の方が大きなものでしょう。
世が造られる前からおられた神のことばなるメシア、主イエスがすべての礎であり、旧約・新約時代の預言者たち、そして使徒たちを通して告げられたことが、聖書の土台となっています。
旧約も新約も、聖書全体が、ただ一人のメシアを指し示しているのです。
5. 異邦人のハンデを乗り越えるべく
旧約の預言を学ぶことで確信を深められるのは、神の計画の堅固さです。
隙間なく組み上がった城壁の石のように、預言者と使徒の言葉の全体は、見事に合致し、組み合わさっています。
そこには、自称使徒や自称預言者の立ち入る隙などありません。聖書の御言葉は、それだけ精緻なものです。
現代の使徒、預言者など100%偽物だと断言できます。
聖書預言によれば、次に真性の預言者が現れるのは大患難時代です。
空前絶後の大災厄の最中、エルサレムに現れた「二人の証人」と呼ばれる預言者が、驚くべきしるしをもって、間近に迫った主の再臨を告げ、イスラエルに悔い改めを迫るのです。
学びを深めるほどに思い知らされるのは、聖書に対する自分の無知さ加減です。
使徒たちが、注釈もなしに次々と引用する旧約の聖句を、読み手や聴衆も理解していたというなら、私など比較の対象にもなりません。
もし、ギリシャ語が堪能だっとしても、使徒パウロの生のメッセージを聴いて、どこまで理解できるだろうかと思います。
話についていけずに、眠り込んで階下に落ちてしまいそうです。
私たちが、紀元二千年の異邦人であることには、大変なハンデがあります。
十二使徒となったペテロたちは、メシアであるイエスに会う以前から、洗礼者ヨハネの元で、聖書預言を深く学んでいました。
使徒たちのように、初代教会の弟子たちのように、聖書を理解できるよういになりたい。それが私の目標です。
コツコツと聖書講解を重ねる過程で、少しずつ、御言葉が血肉とされていっています。
がっしりとした骨組みの上に、しなやかな筋肉が張られていく。
体の器官が、少しの無駄もなく、個々に役割を与えられて、堅く組み合わさっているように、聖書の学びを深めるほどに育まれていく、確かな信仰があります。
主イエスの約束通り、愚直に真理を求める者を、聖霊が助けられ、理解を深められるよう導いてくださっています。
【新使徒運動について、いろんな情報が得られます】
https://harvestwatch.tv/